見えない攻防
〜背番号20の悲喜こもごも〜

(野球少年・山口陽三が高校時代の思い出を自分勝手に語ります)

高校野球の夏の大会、地方予選がボチボチ始まっている。かつて筆者が 参加した神奈川大会も始まった。筆者は現在も神奈川県に住んでいることもあり、 一応大会の試合結果くらいは少しは気にしているつもりで、職場で朝日新聞の ホームページにアクセスして結果をチェックしたりしている(本当は好ましく ないのだろうが)。そんな中、朝日新聞の高校野球に関する特集記事みたいな ページがあり、感銘を受けた。筆者は朝日新聞をとっていないので、実際に 紙面の記事として載ったものなのかホームページにだけ載っているものなのか わからないのだが、あるテーマについて何回かに分けて掲載している特集記事。 その一つのテーマに「背番号」があった。


愛知からの便り

今回の「背番号」に関する特集記事は愛知県においての話であったが、おそらくは どの県でも似たようなことは起こっているのだろう。つまりは、夏の大会 (だけでなく、春・秋もそうだが)にベンチ入りできる人数は決まっており、 「背番号をもらえる」(=ベンチに入れる)かどうかをめぐる様々な事実を ここで特集している。愛知県では18人らしい。神奈川県では20人。ちなみに 甲子園大会は確か16人だ。筆者が特に感銘を受けたのは、中京大中京と大府とで 6月ごろに球場を借りて練習試合をしたというのだが、それが「背番号を もらえなかった3年生同士の試合」だというものである。おそらくは試合にも あまり出たことのない選手たちが、いきなり球場に立たされての試合。 しかも彼らにとって高校生活最後の試合である。スタンドにはレギュラー組が 応援にまわってくれている。おそらくは出場選手の親も来ているだろう。 位置づけはどうあれ、桧舞台である。緊張のあまりストライクが入らずに 失点した投手のことが書かれている。ある外野手はあこがれの「9」の背番号を もらい、母親が背番号を縫い付けてくれ、玄関前で写真も撮って試合に臨み、 あこがれの4番を打って2安打したということも書かれている。多いに 感銘を受けた。

それだけでなく背番号をテーマとしたこの特集はいろいろな視点からの特集記事が 掲載されており、選出しなければならない監督側の思い、当落線上にいる 選手の背番号発表までの気持ちとそのあとの気持ち、あるいは背番号をもらう ことになった選手の責任を感じる気持ちなどを取り上げており、かなり 読み応えがある。「この学校で勝負の厳しさを知った」。大学でも社会人でも、 あるいはプロに行けばそれこそ、同様なことは起こるのだろうが、高校生にして これを痛感しなければならないのは、いささか早いかもしれないとも思う。 「背番号をもらえない結果になって両親に申し訳ない」。おそらくは小さいころ から息子の試合をよく見に来て、大きな期待をかけてきた両親なのだろう。 野球推薦で入学した生徒なのかもしれない。 両親のその気持ちを息子も感じるからこそ、息子も感じる大きい期待だったから、 こんな言葉も出てくるのだろう。筆者自身も業務中ということも気にせず、 読み進めてしまった。感動のせいだろうか、マウスをクリックする右腕が妙に重い。 筆者はめったに泣くことがないので(10年以上泣いていない)、一連の記事を読んでも 泣かずにすんでいるが涙腺の弱い人は泣いているかもしれない。


今回たまたま愛知県でのことを取り上げていたが(中京大中京・大府の他に 豊田西が主に挙げられていた)、似たことはあちこちで起こっているだろう。 そんなことを思うにつけ、平成4年、筆者が高校3年生だったときの夏の大会の ときのことを思い出し、これはこれで文章として記録に残しておくのも いいのではないかと思って書くことにした。

母校・光陵

筆者の母校は神奈川県立光陵高等学校。公立の普通科高校である。野球の レベルは中堅公立校といった程度か。軟式野球部から硬式野球部に転向したのが 昭和63年。これまでに夏の大会での最高戦績は平成3年の5回戦進出(ベスト16)だが 初戦敗退も何回かある。さほど目立つ高校とは言えない。部員数は1学年 10人強くらい。野球人口が減っている昨今でも10人前後いるようなので、 今は恵まれている方かもしれないが、過去に多くても1学年20人を越えたことはない。 1学年で20人を越えるかどうかはけっこう大事な問題で、仮に3年の夏の 大会を迎える段階で20人を越える3年生がいたら「ベンチに入れない3年生」が 必然的に出てきて、先に紹介したような背番号を巡るドラマを演じなければならない。 もちろん、20人に満たないからと言って3年生全員が夏の大会のベンチに入ることを 保証されているわけではないが、筆者の母校はそれほどの強豪でないことも 手伝ってか、昭和63年以降今まで、3年生で夏にベンチ入りできなかった 部員はいないと思う。ある年に相当危ない年はあったが、その学年では 春の大会後、3年生になったときに数人が同時に退部してしまうことが 起きて、結局「ベンチをはずれる3年生」がいないまま、ここまで来ている。 そうなのである。光陵において背番号をめぐる攻防は無縁に近い(もちろん、 3年生にとってとりあえず無縁というだけで、1・2年生の何人かは 当落線上で戦っている。ただ、「(落ちても)来年以降がある」という意味で 3年生のベンチ入りよりは重くないと見ていいだろう。)。

女子のベンチ入り

これは神奈川県特有なのかもしれないが、確か平成1年から女子マネージャーの ベンチ入りを認めている。別に女子である必要はないが、20人の選手とは別に 「記録員」という枠があり、ユニホームも着れないし試合に出ることもできないが 一人の生徒をベンチ入りさせられる。男子校ならばともかく、女子マネージャーの いるチームはだいたい女子マネージャーをベンチ入りさせる。また、この枠は 5月下旬の登録名簿提出の段階である一人の個人名を書いて出さなければ ならないが、大会においては別の人間が入ってもよい。例えばマネージャーが AとBと二人いる場合に、Aの名前を登録しておいて、1回戦のベンチ入りをA、 2回戦のベンチ入りをB、などとすることができる。プラスアルファの特定個人を 戦力としてベンチ入りさせるというための配慮というよりは、より多くの部員 (女子を含む)にベンチ入りの経験を、という配慮だろう。男女平等とか 女性の社会進出とかいうことがここ数年はだいぶ実現に近づいてきたというか、 声高に言われるようになったと思うが、平成1年の段階でこういった配慮を 始めていてくれたことには敬服したい。

筆者が高校3年次、同期の男子部員は筆者を含めて14人。これに佐藤久美子と高橋純子という 二人の女子マネージャーがいた。この16人というのは、入学当初くらいから ほとんど不動のメンバーだった。1年生の終わりくらいに入部してきたのが 一人いたが、途中退部というのがいないまま3年の夏を迎えようとしており、 それは自分たちとしても自慢の一つだった。佐藤・高橋も入学当初から 野球部のマネージャーとして部活動に参加してきて、途中イヤなこともあった ようだがなんとか励ましあいながらお互い続けてきたのは、3年の最後の 夏の大会のベンチ入りというのが一つの励みになっていた部分もあろう。

筆者の立場

ところで筆者であるが、同期の男子部員14人の中でも、いや多くの先輩・後輩を 合わせてもちょっと異色な立場をとっていた。男子スコアラーとして 入部していた。ありがちな話として、例えば途中までがんばって練習を 重ねてきたけど選手として戦力にならないから、裏方に転向するということは あるだろう(監督命令にしても自分の判断にしても)。しかし筆者の場合は 入部の段階から「選手はしない。試合に出なくていい。スコアラーをやる。」と 明確な思いを持っていた。簡単に言えば、選手としての活動よりも、 スコアラーの活動に興味を持っていたし、そちらの方で自分の価値を出せそうな 気がしていたから、ということだろう。また、中学の野球部でもレギュラーに 遠かった自分が、高校でレギュラーだとかそれに近い存在になれるだろうとも 思っていなかった。筆者の考えを杉山敬一郎監督は認めてくれて、そういう 立場を与えてくれ、こちらは様々なデータを提供して杉山監督も筆者の意見には 耳を傾けてくれる、といったかんじでかなり理想の部活動を行うことができた。 ただし、「ユニホームは脱がせない」が杉山監督の考えであり、とにかく 選手たちと同じ練習をやれとは言われた。多分、チームを見る上で、 いっしょに汗を流すことに大きな意味がある、といった考えを持っていたのだろう。 他人から見れば、「練習は同じメニューをやっているのに試合に出る権利は ないんじゃ、わりに合わないんじゃないの?」とも思うかもしれないが、 筆者はあまりそう感じていなかった。また、実際には2年生の終わりくらいから 練習参加は減っていった事実もある(2学年下の教育係だとか、他チームの 分析だとかで)。結局試合には、練習試合の1打席すら、まったく出ることは なかったが、それはそれでかまわないと思っている。

思わぬ攻防

3年生の5月。背番号を決める時期が迫っている。このころ、光陵は 全部員の投票で背番号を決めていた(今は変わったかもしれない)。 確か、1〜9のどれかに選手が自分でエントリーして、各ポジションごとの エントリー部員の一覧が作られ、選手たちが1〜9、それぞれ誰か一人に 投票する。これで1〜9は決まるが、10〜20をどうやって決めることになって いたのか、そう言えばよく覚えていない。筆者が3年生のときは、 主将・副主将・監督らの話し合いで決めていったような気がする。 ところがこの時期にちょっとした問題が起こった。筆者自身は記録員として ベンチ入りするつもりでいた、というかそういう目標でやってきていた。 手前味噌かもしれないが、「記録員」と呼ばれるにふさわしい部活動を 自分はしてきたつもりだったし、適任だとも思っていた。チーム内に ライバルがいるわけでもないが、筆者が1番ふさわしいとも思っていた。 記録員の枠を投票で決めるならば当選(?)の自信はあった。 直接は関係ないが、1年前の先輩たちの学年のときの背番号投票でも、 選手ではない筆者をベンチ入りさせたいという意味での票がいくつか あったと聞いており、自分のベンチでの価値というのを先輩も評価してくれている と思っていた。ところが問題なのは佐藤・高橋の存在である。 筆者が頑固に記録員にこだわったために不要な攻防が生まれた。

顧問(部長教諭)に佐藤一義先生という人がいた。杉山監督と同学年。このとき 29〜30才くらいだろう。野球経験があるわけではないが、光陵に赴任してきた ところで前任の野球部顧問が転任になるからとかで、本人もよくわからない うちに野球部の顧問になっていたとかいう先生である。いやしかし、そういった 状況から非常に親身に野球部のために動いてくださり、平成14年春に他校に 転任するにあたって最後の夏の大会となった平成13年夏のあとにはOB・関係者で 慰労パーティーが開催されたくらいである。それだけみんな感謝していたし、 杉山監督も「佐藤先生がいてくれなかったらどうなったことか」とよく 言っていた。さて、その佐藤先生がこのときに苦労されることになる。 状況としては「山口がなんだか、記録員にこだわっている。しかし佐藤・高橋が ベンチに入れないのもしのびない。山口・佐藤・高橋の3人で記録員をまわすのは 現実的ではない。」といったところ。出した結論は「山口に背番号20を与える。 記録員は佐藤・高橋」である。至極当然と言えよう。しかしこれに筆者が折れず、 佐藤先生は双方との別々の話し合いを複数回開くことになる。筆者も、 5月に体育祭が行われている中で急に呼び出されて体操着で中庭で話を したことがあったのを覚えている。筆者の言い分は、記録員という名前への こだわりである。女子マネージャーへの配慮からできた制度らしいことなど、 このときはあまりよくわかっていない。記録員として誰がふさわしいのか、 それが筆者であるならば筆者でいいではないか。そうでないと言うなら、 それを納得させてほしい。みんなに誰がふさわしいか投票してもらっても かまわない。そう言ったか覚えていないが多分そうは思っていた。 また、もう一つ気になったのは代替案の20番である。3年生が14人(筆者を 除けば13人)だったので20番目の選手となると1・2年生と考えていいだろう。 それが一人ベンチ入りできなかったとして来年以降があるのだが、そうとは言え、 選手ではない自分が20番を背負うことはちょっと抵抗があった。それは 第一理由じゃなかったかもしれないが、ちゃんと佐藤先生には伝えた。

佐藤先生の話は、「制度として女子部員をベンチ入りさせられない。できるのは 記録員の枠だけ。女子を選手登録できるなら、佐藤・高橋にユニホームを着せて 20番をつけさせるのは可能と言えば可能だ。しかしそれができないからこういう 案を出しているのではないか。」というような内容だったと思う。 当時この話の真意を理解して納得して折れたわけではなかったと思うが、 結局は「自分一人が我慢すれば解決するんでしょ?」くらいの気持ちで、 結果としては佐藤先生の案を受け入れた。その過程で20番を背負うことに ついては「20番目にベンチ入りする選手よりも山口は価値があると、俺も 杉山監督も思っている」といった言葉があったと思う。 佐藤先生のこの言葉はすなおにうれしかった。この言葉があったから佐藤先生の案を 受け入れたのかどうかは、定かではない(覚えていない)が。

振り返って

何が正しいか、何が妥当か、今となってはわかっているつもりである。 当時の一件の過程で、佐藤・高橋が悩んでいたということもあとで伝え聞いた。 「陽三が記録員でベンチに入ったら自分たちの3年間はなんだったんだろうか」 といったかんじのことを部員の誰かにこぼしたらしいことも聞いた。 当然である。これを読んでいる人も、当事者の一人である筆者の書く文章だという ことを差し引いても、何が妥当かはわかると思う。チームを組んでいるのに 全体のことを考えず、どうでもいい自分の思いを優先させたいと思っていた自分。 さらに言うと、夏の大会が終わってしばらくしてもまだ納得していなかった 覚えがある。今思えば恥ずかしい思いが強い。しかし、それから10年たっても 頑固に自分の考えをなかなか曲げない性格は変わっていないようにも感じる。 10年前の1件は「若かったから」とも思うし、反省すべき点があるとも思うが、 自分の考えをしっかり通そうとしたことに関しては、納得というか理解というか、 そういう思いは今もある気がする。しかしいずれにしても、佐藤先生の 出した結論がベストであったことは今、十分にわかるし、結果についても 納得している(意図した結果にならなかったけど自分の過程にも納得している、 というところである)。制度として佐藤・高橋をベンチ入りさせる方法が一つ しかないのだ。筆者をベンチ入りさせる方法は二つある。こちらも佐藤・高橋を はずすことなど、当然、目的ではない。制度である。自分の思いだけを通すわけにもいかない。 今はそれを十分にわかる。

このあたりの一連のことは同期の部員の中にも知らない者がいるかもしれない。 筆者自身も自分が恥ずかしい気がするので、これまでもあまり触れないで きたが(当事「納得できない」といった言葉は周囲に言っていたかもしれないが) あえて自分のイヤなところもさらけだすという意味で、また、ベンチ入りを めぐるこんな形もあったということを知ってもらう意味で、書くことにした。 愛知からの特集記事に乗せられて、どうしても書いておきたくなった。


平成4年7月15日(水)、小田原球場での川和高校VS厚木北高校の1回戦。 学校を各自いろいろな理由で休んだ(さぼった)光陵の部員が観戦に訪れていた。 筆者も事前に情報を集めてプリントを作って配布し、偵察作戦も練ってみんなで 偵察に臨んだ。厚木北高校が勝った。

平成4年7月18日(土)。初戦の前日。光陵での練習後のミーティングで佐取太郎主将が 「俺たちは相手の試合も見ているしこれだけデータが揃って相手のことは わかっているんだから」とナインを勇気づけた。

平成4年7月19日(日)、保土ヶ谷球場での厚木北高校との2回戦。 日曜日で地元の保土ヶ谷球場。同級生やら親やらOBやら、応援に数多く駆けつけてくれた。 運よくテレビ放送(テレビ神奈川)もあった。ベンチには高橋が記録員として入り、 筆者は20番のユニホームでスコアをつける。10-5で勝った。5回に7点を挙げての 逆転劇、その中でも高橋はそれほど大騒ぎせず、いつものクールな表情を保っていた。 試合後、朝日新聞の記者が筆者の取材に来た。男子スコアラーというのが珍しいので 取材したいとのこと。わりと長引いて、球場を出たときに仲間は光陵に向かって帰って しまっていたようだったが(歩ける範囲である)、筆者の両親が筆者を待っていたらしい。 父親がユニホーム姿の筆者と並んで写真を撮った。観戦に来たところで 筆者が試合に出るわけでもないと言えばそれまでだが、少年野球を終えた あとはほとんど息子の試合など観戦に来なかった両親が、この日だけは 来ていた。もう一人、筆者の出てくるのを待っていたのがいた。佐取だった。 なぜ待っていたのかよくわからないのだが二人で光陵に歩いて帰った。

平成4年7月21日(火)、光陵での練習後のミーティングで佐藤先生が 「明日の相手はマスコミにも持ち上げられて油断とかがあるだろうから こちらが全力で向かえばなんとかなる。明日は勝負する男の顔で来てください」 とゲキをとばす。3回戦の相手というのは第3シードの相武台高校。 プロ注目の投手がいるというチーム。筆者としても一応の分析はしたが、 ちょっとどうなるか、自信はない。

平成4年7月22日(水)、追浜球場(現横須賀スタジアム)での3回戦。 エース・中込慎一郎が味方のミスもあって、初回に5失点。これが響き、 終盤までこれを返せない。プロ注目の投手は先発してこなかったが2番手の左腕も なかなか打てない。8回にプロ注目の投手が出てきた。2イニングを打者6人で片付けられた。 0-7の完敗。ベンチには記録員として佐藤が入っていた。敗色濃厚の 試合終盤にはスコアをつけるのもやめていた。いろいろ感極まってそれどころでは なかったのだろう。それはそれで、その光景はとても強く筆者の印象に残っている。 試合後にベンチを出たところでスタンドから降りてきた高橋とベンチから出てきた 佐藤が抱き合って泣いていた。



たかだか3回戦敗退くらいの結果を美化するつもりはないが、これはこれで、 光陵野球部25期の一つの形だったと思っている。なんだ、佐藤も高橋も ベンチに入ることができ、筆者も "記録員として" 新聞記事にまでしてもらえたではないか。 佐藤先生も杉山監督もある程度納得だろう。「やれることをやりきった」 思いはあるだろう。淡くて、少し苦くて、楽しい、高校野球生活であった。


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