(野球少年・山口陽三が高校時代の思い出を自分勝手に語ります)
高校野球の夏の大会、地方予選がボチボチ始まっている。かつて筆者が 参加した神奈川大会も始まった。筆者は現在も神奈川県に住んでいることもあり、 一応大会の試合結果くらいは少しは気にしているつもりで、職場で朝日新聞の ホームページにアクセスして結果をチェックしたりしている(本当は好ましく ないのだろうが)。そんな中、朝日新聞の高校野球に関する特集記事みたいな ページがあり、感銘を受けた。筆者は朝日新聞をとっていないので、実際に 紙面の記事として載ったものなのかホームページにだけ載っているものなのか わからないのだが、あるテーマについて何回かに分けて掲載している特集記事。 その一つのテーマに「背番号」があった。
それだけでなく背番号をテーマとしたこの特集はいろいろな視点からの特集記事が 掲載されており、選出しなければならない監督側の思い、当落線上にいる 選手の背番号発表までの気持ちとそのあとの気持ち、あるいは背番号をもらう ことになった選手の責任を感じる気持ちなどを取り上げており、かなり 読み応えがある。「この学校で勝負の厳しさを知った」。大学でも社会人でも、 あるいはプロに行けばそれこそ、同様なことは起こるのだろうが、高校生にして これを痛感しなければならないのは、いささか早いかもしれないとも思う。 「背番号をもらえない結果になって両親に申し訳ない」。おそらくは小さいころ から息子の試合をよく見に来て、大きな期待をかけてきた両親なのだろう。 野球推薦で入学した生徒なのかもしれない。 両親のその気持ちを息子も感じるからこそ、息子も感じる大きい期待だったから、 こんな言葉も出てくるのだろう。筆者自身も業務中ということも気にせず、 読み進めてしまった。感動のせいだろうか、マウスをクリックする右腕が妙に重い。 筆者はめったに泣くことがないので(10年以上泣いていない)、一連の記事を読んでも 泣かずにすんでいるが涙腺の弱い人は泣いているかもしれない。
今回たまたま愛知県でのことを取り上げていたが(中京大中京・大府の他に 豊田西が主に挙げられていた)、似たことはあちこちで起こっているだろう。 そんなことを思うにつけ、平成4年、筆者が高校3年生だったときの夏の大会の ときのことを思い出し、これはこれで文章として記録に残しておくのも いいのではないかと思って書くことにした。
筆者が高校3年次、同期の男子部員は筆者を含めて14人。これに佐藤久美子と高橋純子という 二人の女子マネージャーがいた。この16人というのは、入学当初くらいから ほとんど不動のメンバーだった。1年生の終わりくらいに入部してきたのが 一人いたが、途中退部というのがいないまま3年の夏を迎えようとしており、 それは自分たちとしても自慢の一つだった。佐藤・高橋も入学当初から 野球部のマネージャーとして部活動に参加してきて、途中イヤなこともあった ようだがなんとか励ましあいながらお互い続けてきたのは、3年の最後の 夏の大会のベンチ入りというのが一つの励みになっていた部分もあろう。
顧問(部長教諭)に佐藤一義先生という人がいた。杉山監督と同学年。このとき 29〜30才くらいだろう。野球経験があるわけではないが、光陵に赴任してきた ところで前任の野球部顧問が転任になるからとかで、本人もよくわからない うちに野球部の顧問になっていたとかいう先生である。いやしかし、そういった 状況から非常に親身に野球部のために動いてくださり、平成14年春に他校に 転任するにあたって最後の夏の大会となった平成13年夏のあとにはOB・関係者で 慰労パーティーが開催されたくらいである。それだけみんな感謝していたし、 杉山監督も「佐藤先生がいてくれなかったらどうなったことか」とよく 言っていた。さて、その佐藤先生がこのときに苦労されることになる。 状況としては「山口がなんだか、記録員にこだわっている。しかし佐藤・高橋が ベンチに入れないのもしのびない。山口・佐藤・高橋の3人で記録員をまわすのは 現実的ではない。」といったところ。出した結論は「山口に背番号20を与える。 記録員は佐藤・高橋」である。至極当然と言えよう。しかしこれに筆者が折れず、 佐藤先生は双方との別々の話し合いを複数回開くことになる。筆者も、 5月に体育祭が行われている中で急に呼び出されて体操着で中庭で話を したことがあったのを覚えている。筆者の言い分は、記録員という名前への こだわりである。女子マネージャーへの配慮からできた制度らしいことなど、 このときはあまりよくわかっていない。記録員として誰がふさわしいのか、 それが筆者であるならば筆者でいいではないか。そうでないと言うなら、 それを納得させてほしい。みんなに誰がふさわしいか投票してもらっても かまわない。そう言ったか覚えていないが多分そうは思っていた。 また、もう一つ気になったのは代替案の20番である。3年生が14人(筆者を 除けば13人)だったので20番目の選手となると1・2年生と考えていいだろう。 それが一人ベンチ入りできなかったとして来年以降があるのだが、そうとは言え、 選手ではない自分が20番を背負うことはちょっと抵抗があった。それは 第一理由じゃなかったかもしれないが、ちゃんと佐藤先生には伝えた。
佐藤先生の話は、「制度として女子部員をベンチ入りさせられない。できるのは 記録員の枠だけ。女子を選手登録できるなら、佐藤・高橋にユニホームを着せて 20番をつけさせるのは可能と言えば可能だ。しかしそれができないからこういう 案を出しているのではないか。」というような内容だったと思う。 当時この話の真意を理解して納得して折れたわけではなかったと思うが、 結局は「自分一人が我慢すれば解決するんでしょ?」くらいの気持ちで、 結果としては佐藤先生の案を受け入れた。その過程で20番を背負うことに ついては「20番目にベンチ入りする選手よりも山口は価値があると、俺も 杉山監督も思っている」といった言葉があったと思う。 佐藤先生のこの言葉はすなおにうれしかった。この言葉があったから佐藤先生の案を 受け入れたのかどうかは、定かではない(覚えていない)が。
このあたりの一連のことは同期の部員の中にも知らない者がいるかもしれない。 筆者自身も自分が恥ずかしい気がするので、これまでもあまり触れないで きたが(当事「納得できない」といった言葉は周囲に言っていたかもしれないが) あえて自分のイヤなところもさらけだすという意味で、また、ベンチ入りを めぐるこんな形もあったということを知ってもらう意味で、書くことにした。 愛知からの特集記事に乗せられて、どうしても書いておきたくなった。
平成4年7月15日(水)、小田原球場での川和高校VS厚木北高校の1回戦。 学校を各自いろいろな理由で休んだ(さぼった)光陵の部員が観戦に訪れていた。 筆者も事前に情報を集めてプリントを作って配布し、偵察作戦も練ってみんなで 偵察に臨んだ。厚木北高校が勝った。
平成4年7月18日(土)。初戦の前日。光陵での練習後のミーティングで佐取太郎主将が 「俺たちは相手の試合も見ているしこれだけデータが揃って相手のことは わかっているんだから」とナインを勇気づけた。
平成4年7月19日(日)、保土ヶ谷球場での厚木北高校との2回戦。 日曜日で地元の保土ヶ谷球場。同級生やら親やらOBやら、応援に数多く駆けつけてくれた。 運よくテレビ放送(テレビ神奈川)もあった。ベンチには高橋が記録員として入り、 筆者は20番のユニホームでスコアをつける。10-5で勝った。5回に7点を挙げての 逆転劇、その中でも高橋はそれほど大騒ぎせず、いつものクールな表情を保っていた。 試合後、朝日新聞の記者が筆者の取材に来た。男子スコアラーというのが珍しいので 取材したいとのこと。わりと長引いて、球場を出たときに仲間は光陵に向かって帰って しまっていたようだったが(歩ける範囲である)、筆者の両親が筆者を待っていたらしい。 父親がユニホーム姿の筆者と並んで写真を撮った。観戦に来たところで 筆者が試合に出るわけでもないと言えばそれまでだが、少年野球を終えた あとはほとんど息子の試合など観戦に来なかった両親が、この日だけは 来ていた。もう一人、筆者の出てくるのを待っていたのがいた。佐取だった。 なぜ待っていたのかよくわからないのだが二人で光陵に歩いて帰った。
平成4年7月21日(火)、光陵での練習後のミーティングで佐藤先生が 「明日の相手はマスコミにも持ち上げられて油断とかがあるだろうから こちらが全力で向かえばなんとかなる。明日は勝負する男の顔で来てください」 とゲキをとばす。3回戦の相手というのは第3シードの相武台高校。 プロ注目の投手がいるというチーム。筆者としても一応の分析はしたが、 ちょっとどうなるか、自信はない。
平成4年7月22日(水)、追浜球場(現横須賀スタジアム)での3回戦。 エース・中込慎一郎が味方のミスもあって、初回に5失点。これが響き、 終盤までこれを返せない。プロ注目の投手は先発してこなかったが2番手の左腕も なかなか打てない。8回にプロ注目の投手が出てきた。2イニングを打者6人で片付けられた。 0-7の完敗。ベンチには記録員として佐藤が入っていた。敗色濃厚の 試合終盤にはスコアをつけるのもやめていた。いろいろ感極まってそれどころでは なかったのだろう。それはそれで、その光景はとても強く筆者の印象に残っている。 試合後にベンチを出たところでスタンドから降りてきた高橋とベンチから出てきた 佐藤が抱き合って泣いていた。
たかだか3回戦敗退くらいの結果を美化するつもりはないが、これはこれで、 光陵野球部25期の一つの形だったと思っている。なんだ、佐藤も高橋も ベンチに入ることができ、筆者も "記録員として" 新聞記事にまでしてもらえたではないか。 佐藤先生も杉山監督もある程度納得だろう。「やれることをやりきった」 思いはあるだろう。淡くて、少し苦くて、楽しい、高校野球生活であった。