相模原クラブ「つぶやき」集

古舘の6年間、溝口の3年間、古舘の1年間
(相模原クラブ・山口陽三)

2008年末。相模原クラブでは、溝口揚三が3年間の主将の任を終えた。 溝口が主将を務めた3年間というのは 相模原クラブにとって誠に充実した時期であった。このチームを率いた溝口の 功績は大きい。ただしそれも、前主将である古舘智治の苦労に満ちた6年間の 主将時代があったからこそ成し遂げられたものと思う。

ここに両主将時代のチーム戦績を示す。特に、チームが最も重きを置くクラブ選手権 については別枠で示す。


古舘
主将 公式戦戦績 クラブ選手権
2000 古舘 1勝5敗 神奈川県予選 代表決定戦敗退
2001 古舘 3勝7敗 神奈川県予選 1回戦敗退
2002 古舘 2勝6敗 神奈川県予選 代表決定戦敗退・3位決定戦敗北
2003 古舘 3勝7敗 神奈川県予選 1回戦敗退
2004 古舘 4勝5敗 神奈川県予選 2回戦敗退
2005 古舘 11勝9敗 神奈川県予選 2位→南関東地区予選進出
南関東地区予選 2回戦敗退
2006 溝口 10勝9敗 神奈川県予選 3位(敗退)
2007 溝口 13勝9敗 神奈川県予選 初優勝→南関東地区予選進出
南関東地区予選 2回戦敗退
2008 溝口 12勝9敗 神奈川県予選 優勝→南関東地区予選進出
南関東地区予選 2連勝で代表権獲得
全国大会 初戦敗退

溝口

チーム戦績だけを見ると溝口主将の3年間は古舘主将の6年間を大きく上回る。


古舘の主将就任が2000年。実質的には1999年のうちに話は決まっていた。 当時24歳。自らが「俺でいいんですか?」と思っていたという主将就任は、結果的には本当に苦労が多かった。 チーム事情とは言え、今のチーム構成で見ると、あるいは他チームを見回しても、 24歳の主将とは、若い。この6年間はとにかく苦労が多かっただろうと思う。 古舘自身の若さというよりも、チームの未熟さが大きい。このチームはどういう チームでどうしていきたいのか、何を目指していて何をしてはいけないのか、 など基盤となる部分が固まっていなかったに等しい。若手は若気の至りで自分勝手な 言動を起こし、ときに大人になりきれていないベテランも和を乱す。 整備されていない部内のルールの穴をついたような騒動もあった。 結果が出なかったこともあり、この間の主将任務は大変だったと思う。 ただしこの時期の試行錯誤や下積みがあったからこそ、溝口主将時代の チームの成長もあったと思う。

また、この苦難の6年間の中で古舘という人間自身が大きく成長できた こともチームにとって大きい。筆者と古舘は学年で1年、誕生日にすれば 3ヶ月しかずれていないので「上から目線」で言うのもどこか失礼ではあるが、 彼の人間的成長を真横で見ることができたのは自分にとっても大きな経験であった。

学生時代の部活動の主将は1年間が通例で、その1年間でも人間的成長は できるのだと思うが、彼の場合はそれが6年間。その間、結婚もあったし子どもの 誕生もあった。人生的にも激動の時期の重責でさぞ大変だったと思うが よくこなしたと思うし、それゆえに大きな成長があったのだと思う。


溝口の主将就任は2006年。前年に久々のクラブ選手権南関東予選進出を果たしていた チーム状況での就任だが、戦績としては初年度につまづいた。クラブ選手権、 新加盟の神奈川BBトリニティーズ(のちの横浜ベイブルース)に準決勝戦で サヨナラ負けを喫し、神奈川県予選で敗退してしまった。のちに数々の勝利を 主将として経験することになる溝口が、3年間の主将時代の思い出として最も 印象に残る試合としてあげているのがこの、「南関東予選に行けなかった試合」である。

その悔しさを晴らすように翌年にはクラブ選手権神奈川県予選で初優勝。 神奈川第1代表として臨んだ南関東予選では敗退してしまったが 山梨県知事杯でも優勝を飾る(溝口は打撃賞を受賞)など、年間を通して 過去最高の戦績と言っていい年だった。

その流れを汲んだ2008年はクラブ選手権神奈川県予選をもう1度優勝。 これまで何度か跳ね返されてきた南関東地区予選で、ダブルヘッダーを2試合とも サヨナラ勝利という劇的な形で連勝し、チーム史上初の全国大会出場を果たした (→関連ページ:「7.6 いざ大宮」)。 その締めくくりとなる、代表決定戦でのサヨナラヒットを放ったのが他でもない、 主将の溝口。できすぎたシナリオ、まさに主将がプレーでチームを全国大会に連れて行った。


両極端にも映る古舘主将時代・溝口主将時代。溝口主将時代の躍進のヒントに、 2005年という年がある。古舘主将時代で唯一公式戦の勝ち越し、およびクラブ選手権 南関東地区予選進出を果たした年だ。2004年末、古舘は納会の場でナインを前に 溝口を次期主将に指名した。しかし、ただし書きがついていた。

自分の主将は最後の年にする、絶対に南関東に行くから、とにかくこの1年、 ついてきてくれという強い思いを感じた。まとまりを得たチームはクラブ選手権神奈川県予選で 第2シード・第1シードを続けて倒して南関東地区予選の代表権を獲得した。 年末の神奈川県クラブチーム対抗戦でも優勝。決勝戦では古舘も代打で適時打を 放ち有終の美を飾った。いい形が、できあがりつつあった。そして2005年という年は 次期主将が溝口に決まっていたということで溝口自身がそのことを念頭にも入れながら 活動するという、意味のある時間にもなった。

古舘が溝口を指名した理由についてはいつだか新聞取材でも聞かれていた。 ここで詳しくは触れないが、大ファインプレーである。 天然ぽいキャラクターの溝口にはプレーのみならず主将としての自覚を促し、 また、周囲には一抹の不安の残る溝口をサポートしていこうという自覚が これまた自然発生的に芽生え、チームとして成熟してきた(自チームの過去の状態と比べて)。 古舘の描いたシナリオ以上の効果をもたらした。


2008年。悲願のクラブ選手権全国大会への初出場を果たす。 この年の溝口主将の活躍は特筆に価する。年間を通してオープン戦を含めて 4割を超える打率を残したのもすばらしいが、ことクラブ選手権(予選・本戦)に限ると .591の高打率。バットでチームを全国大会に導いたのは先に紹介した通りである。 実は同じく主将最終年となった2005年の古舘は、チームはそれまでよりも勝つことができたが、 年間で打率.185と絶不調にあえいだ。大きなプレッシャーを背負っていたであろう ことがうかがえる結果であるが溝口についてはそんなものが何も関係なかった。 むしろプレッシャーを力に変えるくらいの活躍だった。それでいて主将の任を終える年末、

と振り返るあたり、やはりどこか他人との違い、あるいは溝口なりの人柄を感じる。


全国大会遠征で後輩を指導する溝口。翌日も2安打。

この年は古舘が兼任コーチに就任した最初の年でもあった。個人的には、 この役割の確立こそがチームの躍進に大きく寄与したと思っている。 2008年の古舘は選手としての成績は110打席に立って打率.273、11打点。 得点圏打率は3割を超え、南関東予選・全国大会でも先発出場。 7〜8番のレギュラー打者としてまあ及第点といったところだろうが、 コーチとして果たした役割が非常に大きかった。岩永一志監督の野球は、少し難しいところがある。 理解に時間がかかる事柄もある。今年のコーチとしての古舘は、パイプ役として それを選手にしっかり伝える役割ができていた。13年にわたる在籍の中で 時間をかけて岩永野球を理解し、監督の指示をときに個別に自分の言葉で、 あるいは監督が口に出さない(とか不在の)場面でも監督ならばこう言うであろうことを、 適時、適確、適切にチームに言ってくれた。選手の中からこういう存在が 出てきたことは、チームにとってすごく大きい。この1年はおそらく古舘自身が これまでとまったく違った形の成長を果たせた年にもなったと思う。


2009年。主将の大役は、5代目となる田山知幸に受け継がれる。古舘主将就任時、 溝口主将就任時とは状況がだいぶ違い、これまでと違う意味で大変な役割となるだろう。 古舘・溝口にはしっかりと田山をサポートしながらチームのレベルアップに寄与してもらいたい。

いつだか(2006年ごろ)古舘はこんな構想を話していた。

図らずもその構想は、溝口主将時代に全国大会に行ってしまったことで、 前倒しされてしまった。ただしそれですべてが終わったわけではないし、 全国大会の舞台で初戦敗退したことで、より上を目指すという明確な目標もできた。 また、いい方にはずれたとは言っても、溝口の主将指名といい、全国大会へのビジョンといい、 古舘の描くシナリオが非常に的を射ていることも証明された。 古舘の人間的成長のカーブと重なるように歩んできた相模原クラブの系譜、 それを溝口は溝口で、誰も想像できないような形でうまく受け継いだ。 今度は田山が、そして彼を取り巻く部員たちがうまく受け継ぎながら、 また、各自が味付けも加えながら、よりよい方向にチームを向けていけたら、と思う。

相模原クラブに幸あれ。我々の挑戦も成長も、まだまだ続くと信じて。


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